【仏教の歴史】仏陀が亡くなった後の仏教、部派仏教について詳しく解説!

釈迦が生まれてから死後100年くらいを初期仏教と言います。

初期仏教に関しては別記事で解説しています!

仏教はいかにして誕生したか?仏教が生まれた流れを分かりやすく解説!

今回は、その次の世代とも言える、部派仏教について書こうと思います。

 

普通だったら釈迦存命の間と死後で、区切りが分かれるのではと思うかもしれません。

仏教で最も重要な人物(=仏陀)の死というのはやはり大きな出来事です。

しかし、仏陀は自分の死んだ後も、教え=法を守って修行に専念して生きるように言い残しました。

自分の葬式もしなくていいから、修行に励めという遺言を残したのです。(結局葬式はなされましたが)

そのこともあってか、大体100年位は釈迦=仏陀が説いた教えは、割と忠実に機能していたと言えるんですね。

しかし、100年も経てば世の中は変わり、また教えもだんだんと変質してきます。

問題は、仏陀の残した言葉がどのように後世に伝わり、解釈されたかという点です。

実は、最初釈迦の直弟子が中心の1つの集団だった仏教教団は、弟子の解釈や意見の対立などで分裂していくことになります。

その分裂した一つ一つの集団を、「部派」というのでこの時代は「部派仏教」の時代という風に言われます。

ここでは、初期仏教のすぐ後、部派仏教と呼ばれる仏教についてご紹介したいと思います。

 

部派仏教=アビダルマ仏教

ここで一つ、聞き慣れない言葉ですが、「アビダルマ」というのが出てきます。

アビダルマというのは、釈迦が紀元前5世紀ごろ、つまり生前に説いた教えを、その死後百年後くらいに仏教徒が解釈した、その解釈の仕方のことを言います。

部派仏教は、はじめ一集団だった仏教教団が、釈迦の教えの解釈の違いによって分裂することで多くの部派が生まれたことで成立しました。

つまり、それぞれの部派が、独自のアビダルマ(教えの解釈)をもっているということです。

そのため、部派仏教を別名アビダルマ仏教とも言います。

 

釈迦が死んでしまった後、その直弟子によってその教えが継承されていくわけですが、その後だんだんと社会のあり方や伝えられる内容が変化して、教えをどのように解釈するかという問題が発生します。

解釈の違いといっても、釈迦の教えが時代を経て曲げられていったというわけではありません。

むしろ釈迦の教えの本質はどういうことかというのを必死で議論し続けたのが部派仏教の特徴です。

 

また、釈迦自身、言ってることが矛盾していたりするのでそれについても考え方が人によって異なってくる余地がありました。

そこで、ちょうどキリスト教のカトリックとプロテスタントのように、考え方によって教団が分裂していきます。

分裂後は、それぞれの教義=アビダルマによって論争が繰り広げられました。

 

根本分裂

まずはじめに、紀元前3世紀頃、根本分裂というのが起こります。

一番最初に根っこから2つに分かれたから、根本分裂です。

最初は釈迦の直弟子が中心の1つの教団だったのですが、それが上座部と大衆部と呼ばれる2つに大きく分かれることになります。

根本分裂後、そこからまたさらに沢山の部派が分かれていきます。

根本分裂はその大きなきっかけだったと言えます。

根本分裂はなぜ起こったか

三蔵の成立

仏陀入滅後、弟子は教団生活を営むにあたって、決まりごと=戒律を作りました。

これは仏陀が生前決めたものを継承しており、教団の秩序を守るためのものでした。

この戒律を「律」といいます。

仏陀は何か教科書的に教えをまとめたものを書いたわけではありませんでした。

そのため、ほとんど口頭で伝わった教えを弟子たちが確認しあい、整理していきました。

そうして整理された仏陀の教えを「経」といいます。

今ではお経を唱えるとか言いますが、現代においては仏陀に限らないにせよ、教えについての文章という意味です。

しかし、仏陀の教えというのは曖昧な部分や矛盾した部分があり、また時代にそぐわない箇所も後に出てきたわけですから、それを弟子が解釈してまとめる余地というのがありました。

解釈された仏陀の教えを、「論」と言います。

この3つの「律」、「経」、「論」をあわせて「三蔵」といいます。

それまでは仏陀の教えは弟子一人ひとりに合わせて説いていたので、場合によっては人によって言われたことが違っていたこともあったようです。

それを、仏教教団全体の方針としてまとめることで、より仏陀の教えを普遍的なものにしようという意志があったのかもしれません。

言うならば、この三蔵が成立することによって、初めて仏陀の教えが体系化されたと言えます。

…釈迦が定めた教団の規則

…釈迦の教え

…弟子による経の解釈

律がきつすぎた

根本分裂の主な原因は、先程あげた律・経・論の三蔵のうち、律にあります。

規律が厳しすぎたんですね。

規則というのは時代が変わればそれに伴いそぐわなくなってくることがあるものです。

今でも時代遅れな規則ありますよね。それと一緒です。

具体的には、戒律をもう少し緩和してほしいという要望が出てきます。

そこで、戒律を変えようとする言わば改革派の僧と、一度決められた律を守ろうとする保守派の対立が起こります。

改革と保守というのはどこにでも見られる構図で、キリスト教のカトリックとプロテスタントも経緯は違えど元々の体制への批判(プロテスト)により分裂しましたね。

この根本分裂も自然な流れだったのかもしれません。

 

一応、元々の教団としての態度は、保守であったと考えられます。

つまり、釈迦の教えはきちっと守っていこうという考え方が主流であったわけです。

しかしながら、改革派にも多くの僧が賛同したため、そちらはそちらで別の教団として独立します。

この保守派、つまり元々の仏陀の教えをちゃんと守ろうよっていう考え方の方を上座部(じょうざぶ)。

改革派の時代に合った教えの解釈を求める方を大衆部(だいじゅぶ)と言います。

こうして、仏教教団は大きく上座部と大衆部に分かれることになります。

 

部派仏教の成立

一度分裂が起こると、それから先はなし崩し的にあらゆることで分裂を繰り返していきます。

それはそれぞれの論=アビダルマの違いということもありますし、人間関係的なこともあったようです。

この分裂したそれぞれを、部派といいます。

たくさんの部派が互いに論争した時代なので、この時代の仏教を部派仏教というわけです。

最初は大衆部の方から分裂していき、後に上座部も分裂することとなりますが、仏陀入滅後200年くらいで、合計20の部派が誕生しました。

これを先程の根本分裂に対して、枝末分裂と言います。

 

部派仏教の特徴

互いに論=アビダルマが異なり、論争を繰り返した部派仏教ですが、共通することはあるのでしょうか。

ひとつ言えることは、そのどれもが仏陀の教えに忠実であろうとしたことだと思います。

保守派の上座部は間違いなくそうであったと言えますし、改革派の大衆部も、仏陀の言うことを否定しようとしたのではなく、時代にそぐう解釈を見つけようとしたのではないでしょうか。

ここに一つ、大きなまとまりとしての部派仏教を見ることができます。

 

いくつもの部派ができるということはそれぞれが小規模に分割され、しかもお互いを批判し合うわけですから場合によっては衰退の恐れも考えられます。

しかし、部派仏教の時代というのは仏教が大きく広まった時代でもありました。

それぞれの部派は、王族や有力商人から庇護をうけて発展していきました。

それはやはり、部派仏教の仏陀に対する忠実な態度が説得力としてあったからではないかと思います。

その上、特に大衆部の方では規律が緩まり、経済的な勢力を持つ部派もあったので、広い範囲で拡大することができました。

そのため、仏教のアジア全体への伝来につながったと言えます。

 

まとめ

以上、部派仏教を紹介しました!

時代というのはどうしても変化するので、一度決めたことをどこまで守るかというのは難しい問題でもあります。

その意味で部派仏教は、時代の要求と仏陀の教えの尊重をすりあわせつつあった時代ではないかと思います。

 

次は、この部派仏教に対して、主に在家(僧じゃない一般の人)から出てきた仏教信仰がどのように仏教のありかたを変えていったかを見ていきたいと思います。

つまり、大乗仏教の思想ということになります。

日本の仏教はこの大乗仏教によるところが大きいです。

是非見てみてください!