【仏教の歴史】大乗仏教の成立 日本仏教にも繋がる大乗仏教について解説します!

これまで、初期仏教→部派仏教という流れで仏教の歴史をおさらいしました。

仏教はいかにして誕生したか?仏教が生まれた流れを分かりやすく解説!

【仏教の歴史】仏陀が亡くなった後の仏教、部派仏教について詳しく解説!

今回は大乗仏教という新たな思想を取り上げようと思います。

実際のところ、大乗仏教は部派仏教に対立する形でできた新勢力でした。

そのため、大まかには釈迦の直弟子から連なる部派仏教とは繋がりがない集団によるところが大きかったと言えます。

つまり、仏教教団というのは釈迦の弟子が弟子をとりという直系の形でなく、ここで一旦分断されるような構図になると考えられます。(勿論、部派仏教の人間が大乗仏教を支持した例も考えられますが、ここでは大局的な話。)

しかし、部派仏教も大乗仏教も、釈迦の教えや悟りについて真摯に向き合った結果考えを異にしたのであって、決してどちらかが誤りであるとか、時代を経て誤解が広まったとかいうことではありません。

部派には部派の考え方が、大乗には大乗の考え方があり、それは多分どちらも意義のある考え方だったと思います。

ただ結果としては、日本をはじめとして現在の仏教の直接のつながりということでいうと、大乗仏教の方になります。

それは大乗のほうが絶対的に優れた考えだったからというわけではありませんが、結果そうなってしまったという歴史的な話になります。

ここでは、大乗仏教がどのように発生したかと、その思想の根本的な部分をご紹介します。

 

大乗仏教の「大乗」って何?

部派仏教では、仏陀の教えが重視され、それに忠実であろうと努めていました。

その仏陀の教えの中核となるのは、やはり「悟りを開く」というところにあると思います。

では、なぜ人は悟りを開くべきなのでしょうか。

それは、その人本人が世の中の欲や執着から離れるため、つまり解脱するためでした。

ここで問題とされているのは悟りを開いた人自身のことであって、そういう意味では隣のAさんが悟りを開いたところで近所の人に特にいいことがあるわけではありません。

悟りを開いた人だけが、安静の極地に到れるのです。

これは極めて個人的な話で、自分のためにやることですから、「自利行」の教えということになります。

自分がよければいいという考え方ですね。

 

仏陀が自利行の悟りを説いたのは事実ですが、それでも仏陀は自分が悟りを開いた後、他人を救うためにその教えを広めようとしました。

これは他人の救済という意味で「他利行」に当たります。

大乗仏教は、仏陀の教えの本質は他利行にあると考えました。

そのため、仏陀を手本として生きるということは、自らが悟りを開くことだけでなく、他人を救うような生き方をしなければいけない。

そうした時に、仏陀の教えの内容ばかりを議論して、自利行を追求した部派仏教との対立が起こってきます。

 

大乗仏教の「大乗」とは、「沢山の人が乗れる船」という意味で、民衆を救うような仏教を目指した言葉です。

それに対し、大乗仏教側は、部派仏教の自己中心的な議論を揶揄して、「小乗仏教」と呼びました。

人々を救うことができる「大乗仏教」と、仏陀の一言一句に固執するあまり独善的になった「小乗仏教」との対立がよくわかります。

 

こういう風に言うと、大乗仏教が素晴らしく、部派仏教(=小乗仏教)が間違っているみたいに捉えられがちですが、実際仏陀の教えにより忠実であったのは部派仏教側だといえます。

これは、「大乗非仏説」と言われ、大乗仏教は釈迦が説いた教えとは別のものであるという考え方があります。

しかし、大乗仏教も仏陀の言ったことを無視して一から作ったわけでもありませんし、部派仏教の方も仏陀の死後100年後に成立したわけですから、どこまで仏陀の教えが正確かは分かりません。

ただ、歴史的には部派仏教は廃れ、大乗仏教が主流となっていきました。

 

大乗仏教の成立の流れ

民衆による仏伝文学

出家を前提とした部派仏教を横目に、そこまで仏教一辺倒では生活できない在家の方にも信仰は広がっていきました。

それは、出家し自らの悟りを追求する人たちとは別に、民衆にも仏陀の教えを伝えようとする人々がいたからです。

具体的に、彼らは人々に教えを語る手段として、物語を作りました。

無知な大衆に部派仏教のような哲学的な考察や経の分析をいきなり伝えるのは無理ですし、本質的には意味のないことです。

そこで、仏陀の生涯をストーリーとして聞かせる大道芸がよく行われたといいます。

この、仏陀の人生に関する物語を仏伝文学といいます。

 

仏伝文学は、民衆に仏陀信仰を広めるのが目的でしたから、部派仏教の研究のように正確な仏陀像を追求するよりも、分かりやすくかつ興味深い内容であることを重視しました。

それは、言ってしまえば想像の世界なので、伝説的とか神話的なものと紙一重ではあります。

ただ、それは仏陀がどのような人物であったかを考え、語られてきた以上の仏陀の本心に迫ろうという試みであったとも言えます。

その観点からすると、部派仏教の細かな言葉の解釈に拘泥している姿は本質的でないとも言えるでしょう。

 

ともかく、仏伝文学が民衆に語られることによって、在家の人間でも仏陀を信仰するようになります。

それは大衆的な、在家主義的な、大乗仏教の土壌を生むことになりました。

 

大衆に仏陀の生涯をストーリー化した仏伝文学が広まった

→在家の人間による仏陀信仰の土壌となった

 

部派仏教批判

ここで、大雑把にふたつの構造の対立が見られます。

一つは、初期仏教を受け継いできた出家した人々による部派仏教。

もう一つは、仏伝文学によって大衆に広まった在家による仏陀信仰です。

後者は言ってみれば正当な師弟関係でない新興宗教ということになります。

しかし、部派仏教の行き詰まった感じ、出家者より在家の人間の方が圧倒的に多いこと、そして何より、新たな仏教が魅力的な思想を伴っていたことから、新しい仏教の方が展開されていきます。

これが大乗仏教運動です。

 

他利行の思想

部派仏教の一番の目的は、「自分が」悟りを開くことでした。

これは、仏陀もそうです。仏陀の教えを忠実に守った結果、そういうことになってます。

しかし、これはある意味では自己中心的です。

部派仏教の悟りは自分のために行うので、自利行の仏教ということができます。

 

出家修行者たちの団体ならそれでも良かったのですが、これが民衆になると違ってきます。

やはり民衆は自分たちも救われたいし、みんなが救われるような仏教を望んだわけです。

そして、やはり教団的には「みんなが救われる」ようなもののほうが支持者が増える傾向にもあると思います。

キリスト教だって、信じるものは最後の審判の日に助かるわけですから、似た要素があるのではないでしょうか。

 

では、仏陀がどういう立場であったかというと、これは少し複雑です。

まず、悟りを開くということに関しては間違いなく自利行の側でした。

自分が修行し、自分が知を得ることで悟りに至るというプロセスはどこまでも個人的です。

一方で、仏陀は悟りを開いた後もその教えを弟子たちに伝えました。

これはむしろ他利行の姿勢だといえます。

大乗仏教は、この仏陀の他利行の側面に注目し、仏教は在家のままに悟りへ近づく、「大衆が救われる仏教」を目指しました。

部派仏教を、小乗仏教=数人しか乗れない船にたとえたのもそのためです。

 

では、実際にどのようにして在家にありながら仏陀を信仰したのか。

つまり、大乗仏教はどういう思想で民衆を救ったのかという、思想を簡単に見てみましょう。

大乗仏教の思想の基本

仏塔信仰と供養

大乗仏教は在家中心の仏教だという話をしましたが、在家と出家は大雑把に次のようなイメージがあると思います。

在家→仏教にそれほど関心が高くない、自分の仕事を持っている、世俗的

出家→仏教専門。禁欲的。仏教だけで生きている。坊主。

このイメージで言うと、在家の人がどうやって仏教の悟りに近づくことができるかというのが疑問だと思います。

出家しなければ一体なにをすればいいかというのは在家主義の大きなポイントです。

だって、普段の生活もあるのに修行とかやってられませんからね。

そこで、考え出されたのが仏塔信仰と供養というやり方です。

 

仏塔というのは、元々は仏陀の遺骨を納めた建造物のことをいいます。

要は仏陀の墓で、みんな欲しがったのでいくつかに分けて作りました。

仏陀は死後自分の葬式を気にしないようにと遺言を残しましたが、結局仏陀の遺骨は崇拝の対象となってしまったわけです。

そういう意味で、部派仏教的には仏塔信仰は仏陀の教えの本質ではないという立場をとりました。

つまり、部派仏教は仏塔を軽視したということです。

しかし、大乗仏教ではこれを大々的にやります。

大乗仏教的には、仏塔を供養(お供え物をしたり拝んだり)することで、仏陀の心に思いを寄せることがなによりの徳であると考えました。

供養は誰にでもできますからね。

そして、それ自体がやはり人の心として素直に受け止められやすかったのではないかとも思うのですが、結局各地で仏塔供養が盛んになっていきました。

 

大乗仏教が盛んになるにつれ、様々な大乗経典が作成されていきます。

次に書きますが、その中で重要視されたのは般若経という経典でした。

仏塔信仰は、そこから更に発展して、お経を供養することにもつながってきます。

今でも写経というのをやる人がいますが、それも一種の経典供養ですし、あるいはそうやって書写した経典にお供え物をするような供養も行われたといいます。

 

般若波羅蜜を重視

初期仏教の修行法として、八正道というのがありました。

四諦八正道とは?現代社会にも繋がる、仏教における苦とその解決方法

これは、

正見…正しく真理を知ること

正思惟…正しく考え判断すること。邪な考えから離れること。

正語…嘘をつかず、良い言葉を口にすること。

正業…悪いことはせず、邪な行為をしないこと。正しい行動をとること。

正命…生活全体において正しい行動を心がけること。

正精進…悟りに向かって努力すること。

正念…正しい教えを心にとどめておくこと。

正定…瞑想すること。

の8つで、これを修行して仏陀は悟りを開いたのだと考えられていました。

大乗仏教の時代になると、これらが更に六波羅蜜という形に発展し、整理されます。

まず、八正道を3つの戒・定・慧に分類します。

戒…正語、正業、正命

定…正精進、正念、正定

慧…正見、正思惟

戎は、正しい行いに関するもので、規律を定めます。

定は、心を平静にする禅定の修行に関するものです。

慧は、智慧のことで、正しいものの見方や考え方に関することです。

こうして分類された戒定慧を、三学といい、仏陀のした修行のひとつとされました。

 

当時三学は誰もが実践した修行ですから、悟りを開くためにはもっと他の修行も必要なのではないかと考えられました。

そこで、先程の三学に加えて、布施、忍耐、精進を入れた6つの修行を、六波羅蜜と呼び、これを仏教徒の理想的な修行だと考えました。

六波羅蜜の中で、最も重視されたのは慧の修行、つまり智慧の修行でした。

これは、仏教における悟りが、極端な修行や神秘的インスピレーションでなく、智慧の完成によって開かれるという思想に基づくものだと思います。

この慧の修行は般若の修行と呼ばれます。(智慧はサンスクリット語で「パンニャー」で、それの音写です)

よって、六波羅蜜のなかの、般若波羅蜜こそが最も重視されました。

空の思想

般若波羅蜜を説く経典に、般若経というのがあります。

大乗仏教初期の重要な経典で、後の仏教の基礎にもなっています。

この般若経は時代とともに新たに作られたりして、膨大な量があります。

その全てに目を通すのは仏教学者でないとやってられないですよね。

ただ、般若経にはその内容を要約した「般若心経」というのがあって、それは300文字くらいの短い経です。

般若心経の心という字は、要点という意味があり、長大な般若経をぐぐっと圧縮したのが般若心経です。

 

般若心経に説かれていることで最も重要なのは、「空(くう)」という思想です。

般若心経には次のような一節があります。

色不異空 空不異色

色即是空 空即是色

色とは、この世に存在するもの、存在するということを意味します。

空は、実体がないこと、固定した存在でないことを意味します。

よって、上の文章の意味は、

「存在というのは実体をもたない、実体を持たないからこそこのように存在する。」

というようなことになります。

 

これは、初期仏教でいう「諸行無常」が展開されたものだと考えるとわかりやすいと思います。

すなわち、すべてのものが空である=完全な実態をもたず、空っぽであるということを言っています。

例えば、私達はコップに入った水を見て、「水だ」と思うわけですが、それは私達がそれを水と名付けてカテゴリ化しているからに過ぎないわけです。

実際は、水の中には色々な成分が混ざっているし、表面は常に蒸発しているし、水そのものも酸素と水素の結合した、常に動き回る分子であるわけで、一秒たりと同じ状態ではありません。

つまり実体というのは私達が便宜上つけている仮のものであり、実体は本当は存在しないということになります。

これが色即是空ということです。

一方、そういった実体のなく常に変化する性質があるからこそ、この世の様々なものはその一瞬一瞬で形をとることができるわけです。

それが空即是色です。

この空の思想こそ、仏教の、「ものが存在するとはどういうことか」という問いに対する答えということになります。

仏性と多仏の思想

もう一つ、大乗仏教の考え方の大きな特徴として、仏性というのがあります。

部派仏教的な考え方でいうと、やはり出家して修行して、仏陀の教えを正しく読み解くことが悟りへの道だと言えます。

しかし、それでは在家中心の大乗仏教にはハードルが高すぎるということ、そして部派仏教が結局は表面的な理屈に終始していると感じられたことから、違う考え方が持ち出されました。

まず、出家しなければ仏になれないという考え方を変えて、人間だれでも仏になれる素質を持っているのだという考え方をします。

この、仏になれる素質のことを仏性(ぶっしょう)と呼びます。

また、仏のことを尊称で如来と言ったりもしますので、如来になる性質をもっているというところから如来蔵という呼び方もします。

如来蔵を説いた経典に「如来蔵経」というのがあります。

これについて「大乗仏教の思想」では、

この経の諸説は、如来蔵(如来になりうる可能性)を、一切の人が有していることを説くものである。…

…『如来蔵経』は要するに、「如来になるための胎児」が、あらゆる人に備わっていることを述べたものである。

出典:大乗仏教の思想 副島正光著 より引用

という風に、やはり大乗仏教の考え方として誰もが仏=如来になれるということがあったことを説明しています。

もっとも、初期仏教にはそのような考え方はなかったわけですから、仏性は大乗仏教のオリジナルの考え方であり、だからこそ「大乗」仏教であったと言えます。

まとめ

ということで、以上が大乗仏教の簡単な説明になります。

大乗仏教の思想は奥深く、1記事で全てを語ることはできませんので、重要な部分だけ抜粋して簡単に説明しました。

必要な部分は個別で記事を上げたいと思いますので、気になる方はそちらもチェックしてください!