日本人の宗教観はなぜ薄い?明治の神仏分離が日本文化を変えた話

日本人はよく宗教観が薄いと言われます。

特定の宗教を信仰しているという意識がある人はあまりおらず、普段の会話の中にも宗教の話というのはあまりでてきません。むしろ、怪しいイメージを持つ人もいるかもしれません。

かといってまったくの無神論というわけでもないようです。

事実、冠婚葬祭には宗教的な行事がつきものですし、なんとなくクリスマスもやります。(これは商業的なお祭りの意味のほうが強いのかもしれませんが)

宗教を気にかけないというのは別に悪いことでもないのですが、不思議といえば不思議ですよね。

世界の多くの人は何かしらの宗教を信仰している人が多く、また日本には数々の宗教建築、芸術がかつての信仰を伝えているにも関わらず、なぜ私達は宗教観が薄いのか。

今回はその答えの一つとして、明治の神仏分離、そこから始まった廃仏毀釈をとりあげて考えてみます。

明治初期の宗教的事情

まず、背景となった時代だけ簡単におさらいしておきましょう。

明治維新というのは、五箇条の誓文に代表されるように、西洋的な政治体制を取り入れ、政府政治を掲げました。

幕府から政府へ、そのシステムとして、天皇制による天皇親政という形態をとりました。

これがいわゆる王政復古というやつですね。

 

ちょうどその頃、国体神学という思想が生まれてきます。

これは、当時の水戸藩で生まれた水戸学に端を発する思想で、「日本の歴史のうちに政治と神道の一貫した伝統を見出そう」とする思想であったと言えます。

つまり、明治維新で掲げられた尊王攘夷という思想、天皇の神的な権威で国家を統一しようという思想は、この国体神学によるものです。

 

一方で、海外との交流が増えたことから、キリスト教が国内に流入してきます。

このキリスト教は、新体制にとって一つの驚異であったと思われます。

そこで、旧幕府のキリスト教の禁止を引き継ぐ形で禁教政策を打ち出しますが、それ以上に国家全体のまとまった宗教観というのが必要とされました。

そこでも、やはり国体神学の観点から、神道がその役割を担うことになりました。

 

従って、明治維新においてはそのイデオロギーとして、神道が採用されたということができます。

神道を国教として定め、それによって国家を統一し、キリスト教に対抗し、天皇の絶対性を強調したのです。

神仏分離

ここで、一つ問題となったのは、日本は古来より神道と仏教がごちゃ混ぜに解釈されてきたという点でした。

元々日本土着の信仰である神道と、中国から入ってきた仏教が混ざって、時には同一視され、独特の宗教を構成していました。

例えば、ある種の神と仏は同一だと考えたり、あるいは神も仏による救済を望んでいると考えたり、その姿は時代によって様々ではありましたが、日本の宗教の中には常に仏教と神道の2つが混在していたのです。

これを神仏習合といいます。

 

明治維新の立場としては、日本独自であることから神道のみをピックアップしたかったわけで、仏教と神道を分けて考えたいという思いがありました。

そこで、政府主導で神道の構造を意図的に作り直し、純粋な国教として再構築する作業が行われました。

これを神仏分離といいます。

大教宣布

明治3年、明治天皇の名で大教宣布の詔が出されます。

これは、天皇に神格があること、神道を国教とすること、などをまとめたもので、日本が神道国家であることを示しました。

神社制度の改革

また、その流れで神社制度も見直されます。

本来神社というのは、それぞれの土地にそれぞれの神を祀ったもので、偉人や皇族なども神として祀られていました。

そこには人々の素朴な信仰心のみが存在していました。

 

国策として神道を組織したい政府は、それぞれの神社を一つの体系にまとめたいと考えました。

そこで、神社制度の改革が行われました。

まず、天皇の祖先であり、日本神話の主神である天照大御神を祀る、伊勢神宮を頂点におきます。

そこから、その下にランク付けするような形で他の神社を配属させていくというのが、明治維新における神社制度でした。

伊勢神宮の次には、官・国幣社という大きい神社を定め、その他は諸社という形で大きく分類されます。

諸社は府藩県社、郷社、産土(うぶずな)社と分かれ、地方村々の神社まで全てを体系づけました。

このときに、政府の意にそぐわない神社は廃社されました。

 

これだけ見ても、民衆の素朴な信仰心とは別の所で、改革が進められたことが分かります。

このように、国策として宗教に手を入れたことが、日本人の宗教観に大きな混乱をもたらしたということは想像に難くないと思います。

廃仏毀釈

神仏分離によって、言わば邪魔になった仏教は弾圧されることになりました。

具体的には、仏閣や寺の廃止や、仏像仏具の焼き払いなどが行われました。

これを、廃仏毀釈といいます。

 

元々は神仏習合で、神社内にも仏具の類がありましたが、それらは神社あらためなどと言われて、破壊されました。

廃仏毀釈運動には熱狂的なものがあり、如来像の首を落としたり、燃やした仏具に糞尿をかけたりといった激しいものであったといいます。

この際に多くの仏教美術品が失われたことは非常に残念で、西洋中世のイコノクラスムを想起させる事件ですね。

 

確かにこのときの時代の風潮というのは、仏教を弾圧し神道一本でまとまろうというものでした。

しかし、それまで神と仏を同等に信仰してきた民衆にとって、突然の神道への改宗はやはり混乱を招いたのではないかと思います。

 

神仏分離の終息

結局、神仏分離は日本人の宗教観に大きな混乱を招きました。

それは、政府主導で、信仰とは関係ない思惑によって改革が進められたことが原因でした。

また、キリスト教の弾圧に対しても国内外からの抗議を受け、神道国教化は思うようにいかなくなってきます。

 

明治4年、島地黙雷により、キリスト教の侵入を防ぐためには神道でなく仏教による方が適切なのではないかという提言書が出されます。

つまりは神道でも仏教でも、とにかく人を教唆し導く教えが、国家をまとめるために必要だったわけです。

そこで、政府は明治5年、教導職を設立し、神仏両方から民衆を導く部署を設けました。

教導職は大教院、中教院、小教院に分かれ、大教院を頂点に各地方に分かれる組織でした。

このように、廃仏毀釈運動が行われたにせよ、仏教は完全に衰退したわけではなく、神仏分離が見直されるとともにまた民衆へ普及していくこととなります。

まとめ

大教院設立後も、依然として神社仏閣は国家の統制下にあり、国民統一の手段としてのレッテルを貼られてしまっていました。(現在の神社仏閣は戦後に解体され、宗教法人という形で運営されています。)

また、一度起こった廃仏毀釈運動の混乱、キリスト教の流入、実際の信仰心とは関係のない儀礼や祝祭の制定は、日本人の宗教観に大きく影響を与えたと思います。

実際、明治維新以降の日本の宗教を全く別物と考えると、その歴史は全く浅いものであると言えます。

例えば、初詣の現在の形というのも鉄道が発達して以降の近代の産物です。

日本人の宗教観が浅いというのも、このあたりに由来するのかもしれませんね。